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2020.11.06

【にいがた再発見!】白鳥が来る街 阿賀野市

こんにちは! 新潟トラベルのハルです。

  • いよいよ冬の気配も近付いてきて、田んぼもすっかり稲刈りが終わり、後は雪に覆われるのを待つばかり…という、いささか物寂しい風景が目に付く今日この頃です。
  • あー…そろそろ本格的におでんが恋しいなぁと思いながら、本日は阿賀野市(あがのし)についてご紹介したいと思います。

あ、もちろんデスクにはコンビニおでんを持ち込んだりなんかしていませんよ!

阿賀野市について

  • 阿賀野市は、新潟市から南東の方向へおよそ20km、越後平野の中央部をやや山間の方へ進んだあたりに位置します。
  • 平成16(2004)年4月、安田町(やすだまち)・京ヶ瀬村(きょうがせむら)・水原町(すいばらまち)・笹神村(ささかみむら)の2町2村が合併して誕生しました。
  • 面積はおよそ192.7㎢。新潟市で1番広い西蒲区(176.55㎢)よりもやや広い面積のうち、4割弱が農地、3割強が山林という緑あふれる田園都市です。
  • 市域の東側に標高1,000m級の山々が連なる五頭連峰(ごずれんぽう)を背負い、どこまでも平坦な越後平野の田園風景が広がっています。
  • 田植えのシーズンともなれば、其処はあたかも緑の大海原に、街や集落という小島がポツポツと点在しているかのようです…。

阿賀野川について

▲ 阿賀野川と五頭連峰(イメージ)
  • 阿賀野市の市名の由来は、市域の南側を流れる阿賀野川(あがのがわ)にあります。
  • 後ほどご紹介しますが、今も昔も農業・水運等々でこの地域とは切っても切り離せない一級河川です。
  • さすがに信濃川には及ばないものの、群馬県・福島県を経て流れくるその長さは、およそ210km。
  • 今回紹介する阿賀野市は、その流れのうちの最下流一歩手前、といった所に位置します。
  • ※なお阿賀野川は、新潟県の県境を越えるまでは『阿賀川(大川)』『荒海川』、それ以降は『阿賀野川』と呼ばれていますが、今回は阿賀野川で統一させていただきます。

●市名の由来は?

  • ちなみに、そもそも何故「阿賀野(あるいは阿賀)」と呼ばれるようになったのか…は諸説あり、他の言葉からの当て字説、なまりからの転訛(てんか)説、アイヌ語由来説等々有るそうですが、いまだ定説はない模様です。
  • まあ慣れてしまうと、そんなことはあまり疑問も持たずに生活していますが。
  • なお話の本筋からは外れますが、お隣には名前の似通った「阿賀町(あがまち)」という自治体もあります。
  • こちらは、簡単に言えば阿賀野川の更に上流域、福島県との県境の山間地に位置するのですが、江戸時代までは会津藩領であり、また明治19(1884)年までは大半が福島県に所属していました。
  • また古くから阿賀野川を通じて上流の会津と下流の新潟とを結ぶ舟運(しゅううん)の要衝だったため、新潟県内でも独特の習俗・祭りがある地域です。
  • ちなみに広さは…阿賀町の圧勝です。阿賀町の面積は952.89㎢、今回ご紹介する阿賀野市の実に5倍弱もの広さがあります。

新潟県、特に新潟市を含む下越地方の歴史を紐解くと、信濃川や阿賀野川などの大河が流れる土地柄、昔から“川のご機嫌”を窺いながら暮らしてきた歴史があります。

それこそ田畑が浸水して収穫ゼロ、といった程度など珍しいことではなく(そもそも四六時中お水タプタプの湿田だった地域もあります)、集落や街の分断や移転を余儀なくされたり、流れが変わって飛び地が出来たり、果ては川が運んできた土砂が積もって船が付けられなくなったので港を移動したり…といった話まで、あちらこちらに点在しています。

●阿賀野川にまつわる悲喜こもごも

▲ 阿賀野川河口の松浜橋の夕焼け

そういった河川と潟・湿地・土砂との悪戦苦闘の歴史は枚挙にいとまが無い…と言いますか、現在も進行形で国や県、市が頑張っているのですが、阿賀野川関連で言いますと、記録に残る最たるものは江戸時代中頃(享保16年、1731年)の松ヶ崎掘割(まつがさきほりわり)の決壊でしょう。

  • 阿賀野川はもともと最終的には信濃川へ流れ込む支流のうちの1つだったのですが、沖積平野のご多分に漏れず、越後平野の平坦な土地をウネウネ流れる内に、あちこちに池やら沼地やら湿地やらの“水たまり”を形成。
  • それが大雨や雪解け水でひとたび増水でもしたら、たちまち氾濫を起こすので、有難さ半分、迷惑なのも半分、でも有難い!といった具合の川でした。
  • 川が氾濫しやすくなる原因は、平坦な土地でいつまでも川がウネウネと寄り道していて排水されないこと。
  • それを解消するために、立ち塞がっていた松ヶ崎(現在の新潟市北区松浜)の砂丘地を“掘り割り”(当時はもちろん人力ですよ!)、日本海へさっさと水を排水するための排水路を造ったのですが…。
  • それが翌年、

雪解け水による増水で崩壊。

  • 恐らく当時の人々はそこまでやろうとは思っていなかったでしょうが、阿賀野川は信濃川へ流れ込む進路から、現在の河口の方向へ突如ドーンと方向転換したのです。
  • 結果として阿賀野川は信濃川と分かれてストレートに日本海へ流れ出すようになり、奇しくも一気に周辺の池やら湿地やらも干拓されて、耕せる土地が増えたのでした。

めでたしめでたし…。

と、棚ボタなお話では当然終わらず。

瓢箪から駒で阿賀野川の排水が改善され、河川の位置(流路)が今までより安定したのは良かったのですが、今度は阿賀野川の位置が移動しないことによって、どんどん同じ場所ばかりが削られて河床が下がってしまい、横にでっかい川があるにもかかわらず、その両岸地域では水が低い位置になってしまったため、いちいち汲み上げてこないと使えない!という状態になってしまいました。

  • 広大な田園地帯を潤すには、ちょっとやそっとポンプで汲み上げたところで焼け石に水。
  • それにそもそもこの越後平野の排水路たる阿賀野川が低いので、近くの田んぼで水を撒いても、一帯に行き渡る前に元の阿賀野川へ排水されてきてしまいます。
  • かと言って江戸時代ならいざ知らず、近現代ともなると「はいそうですか」と耕してきた土地をほいほい移動できるはずもなく…。

さて、当時の人々はこの阿賀野市一帯の田んぼを維持するためにどうしたのか?というと…

もっと水位の高い上流から水を引いてこよう!

と考えたのでした。

言葉にするととてもシンプルですが、その発想、そして規模は中々に壮大です。

  • まず水は、利用することの難しいすぐ隣の低い川からではなく、河床がもっとぐぐっと高い上流から確保してきます。
  • そして阿賀野市の東に連なる五頭連峰の麓から到る扇状地の緩やかな傾斜を利用して、無理なく水が流れるように隧道(すいどう)や水路のルートを張り巡らせ、それにより一段上の段丘面となった平野一帯の田んぼに水を行き渡らせたのでした。

戦前からあったこの一大土地改良計画は、1960年代から本格的に国営事業として動き出し、時には山や神社の土地を突き抜け、時には田んぼの下や元々あった川の下をパイプ管を使ってくぐらせたりして、昭和59(1984)年に全工事が完了しました。

  • その起点である取水塔が、阿賀野市小松にある阿賀野川頭首工(あがのがわとうしゅこう)です。
  • 頭首工というのは、水を引いてくる灌漑施設の中でもスタート地点、“頭”である施設という意味です。
  • この施設で取り入れられた水は、これ1つで阿賀野川の左右岸(阿賀野市、新発田市、新潟市、五泉市)の130㎢(1万3,000ha)以上を潤し、また用途も農業だけでなく工業や水道用水にも用いられており、新潟県内でも最も大きな頭首工です。
▲ 阿賀野川頭首工
  • ちなみに上述の面積が全部田んぼだったとすると、農林水産省いわく「平成30年産水稲の全国の10a当たり平年収量は、前年産と同じ532kg」とのことですので、単純計算でざっと7万トン近いお米が取れることになります。
  • 新潟県の水稲の作付面積が約12万ha、収穫量が約62万7,000tとのことですので、新潟県のコメ生産のおよそ1割がこの施設1つのおかげで作られていると言っても、決して大げさではありません。

  • いろいろな部分を端折り過ぎて、専門家の方には怒られそうですが、今こうして眺めることのできる越後平野ののどかな風景は、決して自然に出来たわけではなく、いつも誰かが手を入れ管理を怠らなかったからこそ見られる風景なのだということを、少しはお分かり頂けましたでしょうか。
  • 阿賀野川頭首工は咲花温泉のすぐ近くですので、最寄りへお越しの際はご覧になってみてはいかがでしょうか?

阿賀野市につたわる伝統の技

  • さて、今では至ってのどか~な阿賀野市ですが、江戸時代中期から明治時代中頃の北前船が活躍する時代には、農業の規模と人口がそのまま比例するかのように、新潟県も日本有数の人口を抱えている時代がありました。
  • 現代でも産業のメインに上げられる農産品はもちろんなのですが、人口が多かったという事は、当然その人たちが必要とする身の回りのものも沢山必要とされていたということ。
  • そして商品そのものを輸入するより、今のように交通網の発達していない当時は、ご当地で作った方がはるかに楽でした。また地方へ技術が持ち込まれた際には、その地元の風土や用途に合わせて、その製品もその土地なりの活かされ方をする、というのも往々にしてあるお話です。
  • 阿賀野市もそのご多分に漏れず、様々な地場産品が存在しています。特に阿賀野川の舟運を利用できた地域や、年貢米の管理に関して幕府や各藩の拠点となっていた街もあり、今と同じかそれ以上にヒトとモノの行き来が盛んでした。
  • ここでは現代にも受け継がれる阿賀野市の伝統の技をご紹介していきます。

●越後亀紺屋 藤岡染工場

  • 創業は江戸時代の寛延元(1748)年、実に270年ものあいだ地元の人々に親しまれてきた、身近な日用品・手ぬぐいなどの染め物工場、専門店です。
  • 現在も旧水原町にお店を構えており、伝統を守りながら現代の暮らしに馴染む、素朴な風合いとモダンな和柄の布小物が人気です。

創業当初は糸の染め物からスタートされたそうですが、お店の3代目さん以降、江戸で「印染め(しるしぞめ)」という文字や柄を入れて染める技法を持ち帰り、以降様々な染め物の技法を用いて、現在も愛される染め物製品が作られているそうです。

  • 亀紺屋さんといえば、目を引くカラフルなデザインで、モダンな手ぬぐいをはじめとした布製品が人気なのですが、こういった木綿素材が広く庶民にまで普及したのは、戦国時代を経て江戸時代以降と言われています。
  • (それ以前は麻や絹、現在では紙の素材というイメージの楮(こうぞ)などの繊維を紡いだものをメインに布を織っていました。)
  • とはいえ木綿は、北陸地方など湿気の多い地方に向いた作物ではなく、江戸時代頃から一大産地として有名だったのは、降水量の比較的少なく乾燥していた瀬戸内に面する河内地方(今の大阪府東部周辺)でした。
  • 農地が増えるにつれて増えた人口に行き渡らせるには、新潟の湿った気候で作られる木綿の量ではとても足りなかったでしょう。
  • そこへ手ぬぐいなどの庶民が使うような品々にも使えるほどの木綿を供給できたのは、越後から年貢米を運び出し、それらの地域と新潟とを繋いでいた北前船(西廻り航路)の一助があったればこそなのです。
  • 阿賀野川などの舟運は、河口の新潟湊(にいがたみなと)へ運ばれた木綿やほかの地域の産物も、上流地域にまで広く行き渡らせていったのでした。

●安田瓦

【良質な粘土に恵まれた安田瓦の地で天保年間(1830)から生産されたと伝えられ、その技術は匠から匠へ受け継がれ、明治・大正・昭和と時代に返遷を経て機械化し今、最新鋭設備とともに全国屈指の高品質な瓦ブランドととして高い評価を受けています。

特徴は曲げ強度が強く吸水率が低いので耐雪や凍害、暴風や塩害など日本海側特有の気象条件に適した抜群の強度、防水性を誇っています。】

【明治に入って国内各地の師団増設、兵舎の増改築が高まり、弘前、旭川師団や新発田兵営の屋根工事を請け負うなど、大量の注文を機に焼成の気運が高まり、安田瓦の真価が広く各地に認められ、官庁、学校等の公共物の需要によって栄えてきました。

また、品質、強度、耐寒性にすぐれ、味わい深い鉄色の瓦は一般住宅・神社・仏閣の屋根を飾るにふさわしく、県内外の名刹に多く用いられてきました。

弥彦神社の勅使館・絵馬殿を始め、新潟市の旧県会議事堂・旧税関や北方博物館、近年では県知事公舎など由緒ある建物の屋根を彩っています。明治に入って国内各地の師団増設、兵舎の増改築が高まり、弘前、旭川師団や新発田兵営の屋根工事を請け負うなど、大量の注文を機に焼成の気運が高まり、安田瓦の真価が広く各地に認められ、官庁、学校等の公共物の需要によって栄えてきました。】

※出展:安田瓦協同組合ホームページ
  • 旧安田町で採れる粘土を使って作られる、いぶし銀な鉄色が特徴の瓦です。
  • 安田瓦協同組合さんのご紹介の通り、冬の寒さや雪の重さにも耐えられる強度を持たせた、まさに雪国仕様の進歩を遂げた瓦です。
  • 表面は陶器などのテカテカした光沢ではなく、少しざらざらした土の質感といぶしたようなマットな感触がします。
  • そしてこれで瓦割りをしたら、相当手が痛そう…十中八九自分の方が大ダメージなのは確実ですね(+_+)

江戸時代中期から明治にかけての建築ラッシュで各地へと広まりましたが、ここでも最寄りの阿賀野川の舟運は、ずっしり重たい瓦を大量に運び出すのに大変便利だったでしょう。


●旧安田町の酪農

今でこそヨーグルトや乳製品で県内外からの知名度もある旧安田町の酪農ですが、そもそも農業メインの越後平野にあって、なぜこの地域では酪農が行われているのでしょうか?

  • 実はこの地域は古くから東南~東南東からのダシの風(通称「安田ダシ」)が吹き、特に6月~10月にかけてが強く、時には安田の町並みの大半が燃えてしまう火災が度々発生していたそうです。
  • 日本海側に低気圧や気圧の谷があって、太平洋側からの風が山を越えてくる際、阿賀野川伝いに津川町方面からの谷間で収束してやってくるため、吹き出し口となるこの地域へは非常な強風となって吹き付けてくるのです。
  • そのため、過去には風向きに合わせて町の区画整理をしたり、消火用の用水路を引いたり、土塁を築いて延焼を防止する施設(火除土手)を作ったりと、あれやこれやの試行錯誤をしてきたのだとか。
  • 旧安田町にはそういった遺構が今も残っているほか、強い風によって枝が一方向に偏ってしまった木(偏形樹)なども見ることができます。
▲ 阿賀野市小松地区の偏形樹
  • 風が当たる側の生長が阻害されて、枝が伸びる方向に偏りが出来てしまっています。
  • そういえば阿賀野川頭首工でも、川の上流方向からひっきりなしに強い風が吹いてきていました(-_-;)
  • そしてそういった強風は農業にも当然影響があり、この地域は越後平野の一部にあって農業、特に稲作にはあまり向いていない地域でした。
  • 国道49号(若松街道)沿いにある乳牛の像と「新潟県酪農発祥の地」と書かれた石碑は、こういった風との苦闘の末に花開いたものだったのです。

★ちょっとブレイク…

  • ちなみに阿賀野市は乳牛だけじゃなく、肉牛もあるんですよ!
  • こちらは阿賀野市の新ブランド牛・あがの姫牛(ひめうし)のローストビーフ丼です。
  • 旧安田町に2018年にオープンした道の駅・瓦テラスさんでいただきました。
  • 赤身肉が柔らかくて、脂っこくないのに旨味がじゅわっと口の中に広がります。

阿賀野市の見どころ

●水原代官所

旧水原町にある代官所で、現在ある建物は平成7(1995)に当時の水原代官所の平面図を基に復元されたものです。

  • 水原代官所は延享3(1746)年に設けられた幕府の代官所だったのですが、そもそもは中世からあった水原城の跡地に建設されました。
  • 鎌倉時代の初頭、幕府御家人で阿賀野市一帯の地頭だった大見氏の末裔とされる水原氏によって築かれた平城でしたが、その後戦国時代(天正~慶長期、16世紀後半から17世紀初め頃)の御館の乱、上杉家の領地移動(移封)にともない、一旦廃城となっていました。
  • ちなみに旧安田町にも平城跡があり、こちらも同じく大見氏の一族が地名である安田氏を姓として名乗り、城郭を整備したものと言われています。
  • こういった水原氏や安田氏などの地方有力者(国人領主)は、北越後の領主の集団・揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれ、農地と上杉家を背景とした一大勢力を持っていました。
  • その後江戸時代に入ってしばらく、旧水原町は新発田藩に組み込まれていたものの、なにしろ広大な水田が広がるこの地域は年貢となるコメの収益が高かったため、それに目を付けた幕府により領地替えが行われ、幕府直轄地・天領(てんりょう)となりました。
  • そしてその行政機関として水原代官所が作られ、以降およそ120年に渡って手腕をふるうことになったのです。
  • もっと詳しく調べると、上杉家のドロドロしたお家騒動だの、幕府と会津藩や新発田藩との争奪戦のゴタゴタだの、それらに翻弄されてドタバタ右往左往したであろう阿賀野市域の有力者達だの、それにも動じずイソイソ農作業に勤しんでいたであろうお百姓さん達だの…が、頭に浮かんでは消えていきますが、ともかく改めて見返してみると、阿賀野市、なかなかに獲ったり獲られたりでモテモテです。
  • 今以上に“お米が採れる土地”ということの影響力というものを実感することが出来ますね。

●天朝山公園(てんちょうやまこうえん)

  • また、同じく旧水原町には越後府跡があります。
  • 水原代官所からもほど近い、現在は天朝山公園と呼ばれて市民の憩いの場となっている公園です。
  • こちらは水原代官所が廃止されるのとほぼ同時期、つまり明治の新政府が『水原県』を設置した際に県庁となった場所です。
  • もともと越後の豪農・市島家の別邸が在ったのですが、戊辰戦争の際に幕府方の会津藩の本営として使われたため、その際の戦火により焼失。
  • その場所を利用して建てられたのが、この越後府でした。
  • ちなみに先程『水原県』と書きましたが、間違いではありません。
  • 明治2(1869)年7月には、新潟県(主に天領だった新潟町とその周辺)を合併し、範囲こそ今と違えど、一時は事実上“新潟県の中心地”だったこともあるのです。
  • もっとも、その翌年水原県は新潟県と名を改められ、更に県庁は日米修好通商条約の締結で開港された港のある新潟町の方へ移ってしまうのですが…。

●六斎市(ろくさいいち)

  • そして今も地域の人々に役立っているのが、毎月4と8の付く日に行われる六斎市です。
  • 旧水原町の、先ほど紹介したの天朝山公園の周辺に出店されます。
  • 今のようにスーパーマーケットやコンビニエンスストアの無い時代、更には自宅に冷蔵庫などの無い時代には、こういった市がまさに市民の台所でした。
  • またこういった市は、規模の大小や頻度に違いはあれど、近隣の町々でも行われていました。
  • なかでも大きなこちらの市は、およそ300年以上の歴史があるそうで、地元の方いわく「昔は現在の3~4倍の店が軒を連ねていた」や「午前中だけではなく丸1日やっていた」という声や、今は主に地元や近隣地域で採れた野菜や果物、魚介類、花などのお店が中心ですが、以前は生活雑貨や衣料品などの店も並び、さながらその市だけで本当に‟スーパーマーケット”の様相だったそうですよ。
  • しかし時代を経た今でも、この旧水原町の六歳市は変わらず市民の台所であり続けています。

●瓢湖(ひょうこ)

  • そして、恐らく冬の阿賀野市のハイライトでありましょう、瓢湖(ひょうこ)!
  • 先日10月7日にはコハクチョウが初飛来しました。
  • 瓢湖は江戸時代、新発田藩によって造成された灌漑用の溜池からスタートし、明治期にはハクチョウやヒシクイ、カモなどが飛来することで知られていました。
  • さらに昭和29(1954)年には野生のハクチョウの餌付けに成功したことで、一躍その名が知られるようにもなりました。
  • 平成20(2008)年にはラムサール条約にも登録され、現在の面積は約0.1㎢ほど。
  • 春の桜に始まり、アヤメやハスなど季節ごとの花々が見られるほか、冬季になると‟白鳥おじさん”による餌やりの様子を見ることが出来ますよ。
  • ハクチョウやカモなどが我先にと餌を取り合う争奪戦は一見の価値あり(?)です。

ちなみにお隣の新潟市北区と新発田市にまたがる湖ではありますが、同じくハクチョウの飛来する湖に福島潟(ふくしまがた)もあります。

▲ 夏の福島潟(イメージ)

こちらは潟湖(せきこ)由来で、簡単に言いますと越後平野の日本海に面した最終地点に出来た砂丘と、阿賀野川の川沿いに出来た自然堤防の裏手にある巨大な “水たまり”であり、しかも現在も日本海より水位が低い(!)ので、最初にご紹介した阿賀野川の松ヶ崎掘割の決壊を経ても、その後300年に渡る治水事業を経ても、変わらずずーっと湿地帯だった…という、今も昔も渡り鳥の休息地であったというのも納得の悠然たる湖です。

  • 現在の面積だけでもおよそ2.6㎢強もあるのですが、この福島潟の南半分は、およそ100年越しの干拓によって現在は田んぼとなっています。
  • つまり昔は、ざっと5㎢以上の広さにわたる範囲が、どこまでも水浸しだったということですね…余裕で東京ドームが丸々収まっちゃう広さなんですが(*_*;
  • これだけの面積が氾濫を起こしたらと思うと…ブルブル、恐るべし福島潟。
  • ちなみにこちらの干拓を含む新潟平野の開発を推し進めて財を成したのが、先程もチラッとお話ししました豪農・市島家でした。
  • この広大な潟湖に挑もうとは…恐るべし、市島家。

●越後桜酒造

  • さて、阿賀野市と言えばお米!そして白鳥!ということで、旧水原町で‟白鳥蔵”の名を冠して日本酒を醸造しているのが、阿賀野市の越後桜酒造(えちござくらしゅぞう)さんです。
  • お高いイメージのある大吟醸を気軽に飲んでほしい、との思いから、庶民の懐と舌にも優しい毎日飲める‟テーブル大吟醸”というコンセプトでお酒を造っています。
  • 美味しいお酒造りには美味しいお水、美味しいお米が無くては始まりません。
  • ハクチョウが毎年訪れる阿賀野市という環境は、渡り鳥にとってもお酒にとっても絶好のポイントだったということなのでしょうね。

2020年10月現在、新型コロナウィルス感染症対策で酒蔵見学は残念ながらお休み中とのことですが、‟白鳥蔵”で醸されたお酒を味わいながら白鳥を眺める、というのもオツな楽しみ方かもしれませんよ!


●五頭温泉郷(ごずおんせんごう)

最後に、忘れちゃいけない阿賀野市の温泉をご紹介します。

五頭山地とその西側に位置する笹神丘陵に挟まれた山間にある五頭温泉郷は、出湯温泉(でゆおんせん)・今板温泉(いまいたおんせん)・村杉温泉(むらすぎおんせん)という3つの温泉からなる国民保養温泉地です。

  • この山と山の谷間は、南北にのびる月岡断層に添うように位置した低地帯で、古くから湧水と温泉が豊富な地域でした。
  • 弘法大師ゆかりという出湯温泉はなんと開湯1,200年、村杉温泉も開湯700年近い歴史を持っており、新潟県内でも古くから湯治場として有名です。
  • また、全国的にもこれだけ広い範囲で豊富な天然ラジウム温泉(ラドン温泉)が湧いている例は珍しいとのこと。
  • そして温泉そのものも湧いてきている温度が低めなので、ぬるめのお湯にゆったり浸かる…という、まさに湯治にピッタリな楽しみ方が出来るところも、長年愛されている理由かもしれません。

出湯温泉や村杉温泉には、気軽に楽しめる共同浴場や足湯もありますので、日帰り阿賀野市散策のシメに立ち寄るのもお薦めですよ!

そして今回、白鳥の舞い降りる阿賀野市を訪れるコースを新たに販売開始いたしました!

その名も「新潟の“潟”ツアー」です!

ただし越後平野はむやみに広いので、1日ですべてをご案内することは難しいですが、気軽に空いた半日でもお楽しみ頂けるよう、

・新潟市西蒲区の上堰潟公園(うわぜきがたこうえん)と西区の佐潟(さがた)を巡る西コース

・阿賀野市の瓢湖と福島潟を巡る北コース

の2つをご用意いたしました。

  • ちなみにハクチョウがお目当ての場合、お薦めはそれぞれ午後便(13:00出発)です。
  • 実はハクチョウは、日中は周辺の田んぼで落穂拾いをし、夕方になると瓢湖や福島潟などの湖沼に戻ってきて休むという、ある意味サラリーマン的生活を送っています。
  • ですので、湖面に泳ぐハクチョウをカメラに収めたいのであれば、早朝もしくは午後遅く~夕方にかけてがお薦めのタイミング!なのです。
▲ 日中は田んぼでお食事中のハクチョウたち
  • もちろん午前便(9:00出発)でも、周辺の田んぼへ出張中していないのんびりしているハクチョウやカモなどを見ることは出来ますよ!
  • ぜひ皆様のご参加をお待ちいたしております。

他にも、明治時代に旧阿賀野市に生まれ、ほとんど独力で『大日本地名辞書』を書き上げた吉田東伍(よしだとうご)の記念博物館や、親鸞(しんらん)や行基(ぎょうき)、上杉謙信をはじめとした戦国武将、さらには豪農の市島家や斎藤家などといった思わぬビッグネームゆかりの古刹に出会えたり、そしてお米に勝るとも劣らない美味いもん🤤があったりと、阿賀野市にはまだまだご紹介したいところが本当はた~くさんあるのですが、今回は一旦ここまで。

  • 最後までお読み頂きありがとうございます。
  • では、次の「にいがた再発見!」でお会いしましょう!

≪参考≫
  • 鈴木郁夫・赤羽孝之(2010)『新旧 地形図で見る新潟県の百年』新潟日報事業社
  • 田村裕・伊藤充(2010)『知っておきたい新潟県の歴史』新潟日報事業社
  • 水の駅「ビュー福島潟」発行パンフレット『福島潟』(2020年3月)
  • 阿賀野市商工観光課発行パンフレット『阿賀野市観光ガイド』(2019年3月)
  • 安田瓦協同組合『安田瓦協同組合』 http://www.yasuda-kawara.jp/ (閲覧:2020年10月)
  • 農林水産省『「平成30年産水稲の10a当たり平年収量」について』https://www.maff.go.jp/j/press/tokei/seiryu/180320.html (閲覧:2020年10月)
  • 新潟県『【新発田】くらしを守る阿賀野川頭首工』https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/shibata_noson/1274220090696.html (閲覧:2020年10月)
  • 阿賀野市『水原露店市場(水原六斎市)に行こう!』http://www.city.agano.niigata.jp/soshiki/kankou/45351.html (閲覧:2020年10月)
  • 新潟県: 歴史・観光・見所『阿賀野市:火除土手』『水原代官所』『阿賀野市:越後府跡(継志園・天朝山)』https://www.niitabi.com/agano/ (閲覧:2020年10月)